電車に揺られながら

読書用の本を置いてきてしまったorz
よく「本当の自分」とかいう言葉を聞く。

私は内と外で結構態度が違うらしい。いや、「らしい」ではなく自覚もしている。家では面白いとかうるさいとか言われるけど、外では比較的大人しい…はず。最近こそ友人に「イザヤ殿昔と違う><」なんて言われるけど、内での自分が外に出てるだけ。それをうっかりと言うか慣れと言うかは別として。友人に家族的意識すら持っているのかもしれない。
でも、そもそも態度が変わるのはは猫被ってるとか素が出せないとか、そんなのじゃない。どっちも私にとっては本当の自分…というか、ただの自分。
「本当の自分」じゃなくなるのは、事務役職に従ってり自分を偽って演じるときくらいじゃないんだろうか。
自分の考えたことを話している限り、自分は本当の自分でいられる。ならば自由と制限のバランスの違いが「本当」と「本当ではない」自分を生み出すのか?
…そのバランスの境界線を引くのは「自分」であって、ではその線を引くのが自分の思考。その自分は「本当の」自分か否か。

さて。*1
「したいことが出来ない」が「本当の自分ではない」と同義ではないだろう。
ルールとは何処にでもあるもので、それは所謂「本当の自分」とやらを出せるらしき場所にも存在する。ならば、どこにだって本当の自分は存在するはず。条件の差異は内外ないしは相手くらいだろう。家では本当の自分でられないとか、外では本当の自分が出せないとか、そんな言い方はあまり的確な言い方でない気がする。
まぁ、人間は基本的に自己愛とか自己保身を持ち備えているはずだから、「自分」 を問題にする事自体が間違っているのかもしれない。

そして今ここまで読み直して一番混乱しているのは私だろう。何を書いているのかさっぱりである。*2

こんな文章を書くのは本当の私じゃない、なんて言ったら貴方は信じるだろうか。

*1:大きく脱線する事を示すディスコースマーカー

*2:携帯なので文章を読みにくくて仕方ないせいかもしれないが